秋になってだいぶ時間と気持ちの余裕が増えてきたので、勢いよく本を読んでいるんだけど全然まとめられていない。
テーマは「優しいってどういうこと」「自他境界って何?」の二本立てくらい。それに加えて、エジプトの予習をしつつ生き物や推し哲学者の本をちらほらと読んでいる。
やさしさと責任の話。
どうも夫の考える「やさしい」とわたしの考える「やさしい」はだいぶ違うようだという感覚があり、じゃぁ私の考える「やさしい」とはなんなのか、というのがこの一連の読書の発端だった。
私の考える「やさしい」は、「体力+観察+技術」。気持ちがなくても行動として起こりうるものだと思っているし、やさしいに感情は関係ないと思っている。
やさしいというのは、あなたが持つコントロールの権利を手放し、委ねたことの結果の責任を引き受けることである
- コントロール権を手放し、相手に委ねること
- その結果、起こることの責任は引き受けること
自分のコントロールを相手に「委ねる」ということは、委ねることが相手への押し付けになっていないことが大前提であり、さらにその上で、ゆだねたことで何が起きても、コントロールを手放したあなたが最後までその結果を引き受ける必要がある。
- 自分の事は自分で、決める。
- 自分の選択の結果がどうであっても、責任を持つ
- どんなことも自分の誠意のもとで、選択する
あなたが子どもをもったのは、あなたの責任であって・・・・・そうである以上、あたなは自分でその生活をどうにしなければならない。・・・・・こうした主張を論駁し、それに代わって、他者を頼ることをそのうちに含むような、もう一つの責任概念を理論家すること
が、この本のテーマ。なんてやさしいのだろう。「自律的な存在の人間が自分の意思で行為する。強い主体を全体とする「強い責任」。これは、私が考える”責任”観の前提と一致する。筆者が提唱するのは「他者をたよらなければならず、傷つきやすさを抱えた人間を前提にする「弱い責任」。強くなること自律し社会・経済・精神的に自立することを目指すことは重要だと思うけれど、子育てをすること、病気になること、人が自律的でいられなくなる「弱い人間」になる瞬間はこの先いくらでもあると思う。そう言う時に、どう考えればやさしくなれるか、他人を頼ることによって余裕を生み出せるか、余裕を生み出すことでよりよい状態で責任をとることができるか。そんなヒントが掴めそうな序章。
「思考は友情を基礎としている。そうである以上、友情が奪われるとき、思考もまた私たちから奪われる。」〜ナチスドイツの文脈から
戦争という状況において、また今現在の政治に対しても思考を失わないこと、奪われないことの重要さを改めて思った。
「一般的に責任は意志の概念を前提にしている。つまり私たちが自分の行為に責任を負うのは、その行為が私たちの意志に基づくものであるからである。意志が生じたからこそ、その結果に対して責任が課せられるのだ」
「責任とは「傷つきやすい他者」に対する気遣いであり、憂慮である。」
これはやさしさ。
「「私」に責任があるのだとしても、その責任を独力で全うする力がないなら、「私」はむしろ他者を頼るべきである」
これが「弱い責任」の基本的な考え方。この一連の考え方を具体化していくのに使われるのが、子育て中に起こりうる典型的な場面なんだけど、他人を頼ることのハードルを下げていくようなわかりやすい事例が多くて良い。自由と責任に関する話も出てくる。
「未来への責任は、未来の世代が自由であることへの責任に他ならない。」
そして子育ての話をしていると必ず出てくる”ケア”についての話に広がる。
「私たちは、自分が責任を引き受けられる状態であることにも責任を負う。この意味において他者への責任は、自分自身への配慮をそのうちに含んでいるのである」
ここのフレーズは気に入ってる。最初の「やさしさ」の定義にもつながってくると思う。起こることの責任を引き受けることまでがやさしさならば、それを引き受けられる状態に自分をおいておくことは前提として必要。そして、そうであるためには余裕が、余裕を持つためには他人を頼ることが必要。
ここまでが一通り読んだ本の優しさと責任についての話たち。
このあとに読んだ「弱さ」と向き合うことについての本とかについては、また次の記事で書きたいけど一旦リストだけ置いておく。