秋になってだいぶ時間と気持ちの余裕が増えてきたので、勢いよく本を読んでいるんだけど全然まとめられていない。
テーマは「優しいってどういうこと」「自他境界って何?」の二本立てくらい。それに加えて、エジプトの予習をしつつ生き物や推し哲学者の本をちらほらと読んでいる。
やさしさと責任の話。
どうも夫の考える「やさしい」とわたしの考える「やさしい」はだいぶ違うようだという感覚があり、じゃぁ私の考える「やさしい」とはなんなのか、というのがこの一連の読書の発端だった。
私の考える「やさしい」は、「体力+観察+技術」。気持ちがなくても行動として起こりうるものだと思っているし、やさしいに感情は関係ないと思っている。
ここ半年の読書の中で一番気に入った1冊。「やさしい」とはどういう現象か。どうすればやさしいが続くのか、について著者の考えをまとめている。著者の「やさしい」の定義は次。
やさしいというのは、あなたが持つコントロールの権利を手放し、委ねたことの結果の責任を引き受けることである
- コントロール権を手放し、相手に委ねること
- その結果、起こることの責任は引き受けること
この1と2の双方を満たすことが本来のやさしいである。と著者は言っている。これだけだとちょっと難しい。
自分のコントロールを相手に「委ねる」ということは、委ねることが相手への押し付けになっていないことが大前提であり、さらにその上で、ゆだねたことで何が起きても、コントロールを手放したあなたが最後までその結果を引き受ける必要がある。
ここまでくると、では「コントロール」とは何かを整理しないといけないのだけど。コントロールを手放してなお、結果を引き受ける必要がある。というのは意外と難しいことだけど、なんとなく私がやさしさについてイメージしていることと合致して、これだ!と思えた定義だった。
この著者における「コントロール」とは、「人や物事を制御し、管理し、統制する」あるいは「自分ができる範囲を自分で決める裁量権」のこと。このあたりから自他境界とは何か。自他の境界がつけられているかどうかが、優しさと関係してくると思う。やさしいとは、コントロールを手放して相手に委ね、結果を引き受ける、ということなら、自分が何をどこまでコントロールしたいとおもっているのか、しようとしているのかを明らかにしたうえで、手放す必要がある。自分のコントロールの欲求を明確にするには、まず自覚して境界を引かないとあきらかにできないと。それを混在させたままの「やさしい」は結局、結果を引き受ける”責任をとる”ができてなくて片手落ちだよね。という整理がすごくしっくりきた。
私が一番嫌いなことばの一つが「あなたのためを思って」という言葉。最後の章にこの言葉に言及した部分があったのだけど、コントロールとか教育とかってほんと難しいなと思った。
「やさしい」の定義の一部に、「責任をひきうけること」というのが出てくる。責任を取る、引き受けるというのは、「やさしい」においても自他境界を考える時にも重要な概念だと思っているのだけど、では責任とはなんなのかを考えて読み始めたのがこの本。まずはちょっと軽めのちくまプリマー新書から。
「自己決定」は「責任をひきうける」の前提として、不可欠なものと思っているので、あえてそこにある問題点を考える視点でまとめた一冊を選んだ。自己決定の重要性を前提として、その問題点を整理していく形で、よく頭に入った。
幼児が自分の着たい服を選ぶところから、学びたい内容や進学したい大学を選ぶこと、就職先を選ぶこと、全てにおいて「自己決定」はついてくるものだし、自分で決めたことがだから、自分で責任をとれる。それが大人だ。と思っている。いつぞやに書いて今も大事にしている私の人生の倫理に次がある。
- 自分の事は自分で、決める。
- 自分の選択の結果がどうであっても、責任を持つ
- どんなことも自分の誠意のもとで、選択する
要は他人に決められたことの責任なんてとりようがないよね。と思っている。
という思想は、多分に社会からなんらかの影響を受けた考え方のはずだと思っていたけど、それを整理されているのが1章。自己決定と責任について整理されている。
あとの章では、「決められること」の背景にある見えにくい「決められないこと」について整理されている。これ読んで理解すると、私は優しくなれるなぁと思った。自己決定とそれに基づく責任を取るという行為・思考は、私にとって大人として当然のものであり、乳幼児の限定的な範囲から青年、成人となるにつれ範囲を広げていうということが成長であり自律・自立であると思っている。
その考えは変わらないけれど、自己決定できない他人、他責的な行動をする他人を見た時に、何がその背景にあるのかをよく観察し推察するためのヒントやきっかけになりそうだと思った。自己決定できないことをただ否定するのではなく、その背景を観察し思考する。理解できない他人への相互理解を引き出して、やさしさにつなげる、私という人間の幅を広げてくれそうな良い1冊だった。
上の本の最終章で言及されていたのがこの本。「やさしい」を実現するには、余裕が必要だけど、余裕を生み出して責任を取るには、人は一人で生きられないので、誰かに頼る必要がでてくる。となった時に、では「頼る」とはどういうことか。冒頭の子育て時の事例がすごくわかりやすいので、スルッと内容に入っていける。
ところで、人生を生きるなかで結婚や子育てという、なんだか大変そうなことを進めよう。進められる、と思った理由が一つある。もはや結婚や子育てはそういう生活を「選ぶもの」であって、やらなければいけないことではなくっている時代だと思っている。なおかつ、相手がどういう人間であるかは、短時間ではわからないし、子がいる生活がどうなるかもわからない。それでも「適切なタイミングて、周囲の人や制度に助けを求めながらどうにかやっていける」と30歳を過ぎたある時に思えて、先に進んできた。
で、「責任を取る」ということについて前の本で考えたのち、「他人に頼る」ということについて考えてみようと選んだのがこの本。
あなたが子どもをもったのは、あなたの責任であって・・・・・そうである以上、あたなは自分でその生活をどうにしなければならない。・・・・・こうした主張を論駁し、それに代わって、他者を頼ることをそのうちに含むような、もう一つの責任概念を理論家すること
が、この本のテーマ。なんてやさしいのだろう。「自律的な存在の人間が自分の意思で行為する。強い主体を全体とする「強い責任」。これは、私が考える”責任”観の前提と一致する。筆者が提唱するのは「他者をたよらなければならず、傷つきやすさを抱えた人間を前提にする「弱い責任」。強くなること自律し社会・経済・精神的に自立することを目指すことは重要だと思うけれど、子育てをすること、病気になること、人が自律的でいられなくなる「弱い人間」になる瞬間はこの先いくらでもあると思う。そう言う時に、どう考えればやさしくなれるか、他人を頼ることによって余裕を生み出せるか、余裕を生み出すことでよりよい状態で責任をとることができるか。そんなヒントが掴めそうな序章。
中盤はそこそこ難しいのだけど、全体にやさしさが溢れている一冊だと思った。気に入ったフレーズだけ抜粋。
「思考は友情を基礎としている。そうである以上、友情が奪われるとき、思考もまた私たちから奪われる。」〜ナチスドイツの文脈から
戦争という状況において、また今現在の政治に対しても思考を失わないこと、奪われないことの重要さを改めて思った。
「一般的に責任は意志の概念を前提にしている。つまり私たちが自分の行為に責任を負うのは、その行為が私たちの意志に基づくものであるからである。意志が生じたからこそ、その結果に対して責任が課せられるのだ」
この責任の定義は國分巧一郎によるところだそうだけど、私の倫理の前提でもある。どっかで読んだのかもな。國分はこの能動的な責任を前提として”中動態”の概念を展開していく。で、中動態の概念も紹介されているけどちょっと難しい。
「責任とは「傷つきやすい他者」に対する気遣いであり、憂慮である。」
これはやさしさ。
「「私」に責任があるのだとしても、その責任を独力で全うする力がないなら、「私」はむしろ他者を頼るべきである」
これが「弱い責任」の基本的な考え方。この一連の考え方を具体化していくのに使われるのが、子育て中に起こりうる典型的な場面なんだけど、他人を頼ることのハードルを下げていくようなわかりやすい事例が多くて良い。自由と責任に関する話も出てくる。
「未来への責任は、未来の世代が自由であることへの責任に他ならない。」
そして子育ての話をしていると必ず出てくる”ケア”についての話に広がる。
「私たちは、自分が責任を引き受けられる状態であることにも責任を負う。この意味において他者への責任は、自分自身への配慮をそのうちに含んでいるのである」
ここのフレーズは気に入ってる。最初の「やさしさ」の定義にもつながってくると思う。起こることの責任を引き受けることまでがやさしさならば、それを引き受けられる状態に自分をおいておくことは前提として必要。そして、そうであるためには余裕が、余裕を持つためには他人を頼ることが必要。
ここまでが一通り読んだ本の優しさと責任についての話たち。
このあとに読んだ「弱さ」と向き合うことについての本とかについては、また次の記事で書きたいけど一旦リストだけ置いておく。
弱さと向き合う話。
そのほかはいろいろ。これは意外と技術的な本だった。
文章校閲の話
山の話。
順不同になっちゃったのでちょっとずつ整理するぞぅ。。。